渡辺通りの渡辺って人の名前?

福岡の人で「渡辺通り」を知らない人はいないでしょう。

えっ知らない!そうかー!他県から来た人は知らないかもね。

でもね、天神に遊びに来たら地下街は行くでしょう!その天神地下街はその「渡辺通り」の真下を通っているんです。バスや電車で天神についたら、パルコやイムズやニーナに行くなら必ず通るのが「渡辺通り」。天神橋口交差点から渡辺通り1丁目交差点までの1.3キロメートルを指すのです。

天神橋口交差点はミーナ天神の前の交差点(昭和通り)のことで、渡辺通り1丁目交差点とは九電ビル前の交差点(住吉通り)のこと。

実はこの通りは渡辺與八郎さんっていう人の名前にちなんで「渡辺通り」と名付けたそうです。古には地名を名前にしたということは聞きますが、個人名を通り名にしたのはあまり聞きませんね

じゃあ渡辺與八郎さんってどういう人だったんでしょうね。時は慶応2年というから江戸末期で博多の豪商で呉服商「紙与」の3代目として生まれてます。そして1911年(明治44年)といいますから今から100年余り前ですね、当時の天神・博多駅あたりはまだまだ田んぼや畑や沼地が広がっていたそうで、人口7万人の福博の発展には交通インフラが重要だという信念から、都市の生命線である交通インフラの整備、具体的には路面電車の創設に情熱を注いでいきました。「電車が通れば自分の家は潰れてもいい」と言う意気込みで與八郎氏は、電車を走らせるための土地の買収を行っていきました。所謂、私財を投げ打ってまでして当時の天神から渡辺通を通って博多駅へ、それから築港を巡回する道路を開き「博軌電車」(のち西鉄福岡市内線循環線)俗にちんちん電車と言われる路面電車を開業しました。残念なことに開業まもなく與八郎は46歳で急死しますが、彼が命を懸けて作った道路網や鉄道敷設計画はその後の天神および博多の発展の基礎となっています。呉服商「紙与」の3代目だったのですが、「紙与」という名前は聞いたことはありませんか?実は與八郎さんが残したものは交通インフラだけではなかったのです。周辺の土地を買っておいたのが良かったのですね、天神および博多の発展とともに路面電車開業の副産物として広大な土地が渡邉家が所有する不動産資産として残ったのです。

渡辺通
博多上西町の紙与本店(明治末)

今では紙与福岡ビル・紙与天神ビルなど渡辺通り沿いの目抜き通りに、また博多駅前に紙与渡辺ビルなどのオフィスビルを10棟ほどや立体駐車場を4か所ほど持ち、大丸が入っている西日本新聞会館も渡辺家経営のものです。

「紙与産業」「紙与不動産」「紙与パーキング」などの経営で福岡では随一の不動産業として今も活躍しているのです。正に「100年の計」、先見の明があるとはこういうことなんでしょうね。